公開: 2019年9月3日
更新: 2019年9月7日
清国が倒れ、中華民国が設立した時、清国と蒙古との国境線は明確ではなかったようです。このため、日本軍が満州地域を実質的に支配するようになってからも、満州に拠点を置いた現地の武装勢力と、蒙古を支配していた勢力との間で、しばしば小規模な武力衝突が発生していたそうです。満州の統治を行っていた日本陸軍の関東軍は、この度重なる武力衝突にいらだっていたようです。関東軍の参謀は、蒙古の勢力に対して「一撃を喰らわせて」国境線を確定させる必要があると考えていました。
そのような背景から、関東軍の若手の参謀は、蒙古側の勢力との本格的な戦闘の準備を始めました。他方、蒙古側もそれを察知して、ソ連軍に援軍を依頼しました。つまり、日本側が攻撃を仕掛ければ、ソ連軍との正面衝突になる可能性がありました。ソ連軍は、戦争準備のために大量の武器・弾薬、戦車、大砲などをシベリア鉄道を利用して蒙古へ運び、戦闘の準備をしていました。これに対して、日本軍側は、短期的な戦闘で決着がつくと想定したため、大型の大砲や大量の戦車の投入の準備はしていませんでした。
日本側には、ソ連はヒットラーの侵攻が始まる可能性があるため、北部満州への大量の軍備投入はできないだろうという予想があったため、戦闘は始まっても長引かないと考えていました。これは、日本軍、日本政府の大きな誤解で、ソ連のスターリンは、ヒットラーとの間で、独ソ不可侵条約の締結を準備していました。この条約の締結には、暗にポーランドをドイツ領とソ連領に分割する合意も含まれていました。このドイツとソ連との間の交渉を全く知らなかった日本軍や日本政府は、ソ連はドイツの脅威のために、ヨーロッパ側の防衛線に軍隊を貼り付けなければならない状況にあると考えていたのでした。
1939年5月28日、日本軍の部隊による攻撃で戦闘が始まりました。日本軍の現地部隊は、蒙古・ソ連側の兵力が極めて少ないとの情報に基づいて、攻撃を開始しました。しかし、その情報は誤りで、全ての面で、防御側のソ連軍が日本軍に勝っていました。この戦いでは、広大な地域での戦闘だったために、部隊間の連絡に使う無線機がうまく使えず、両軍とも統制を失って、個別の部隊がばらばらに戦闘を展開しました。ソ連側の圧倒的な兵力の前に、日本軍は戦闘開始前の位置を死守するのが精一杯だったようです。ソ連も、日本軍を追撃せずに撤退したため、第1次の戦闘は、短期間で終わりました。
第1次の戦闘の後、ソ連軍では、戦闘の分析が詳細に行われ、司令官の交代が実施されました。さらに、新しい司令官は、第1次の戦闘で、日本軍の航空部隊に痛手を食わされた航空兵力の増強を行いました。スペイン内戦で戦った経験豊かなパイロットを新しい航空部隊に投入しました。また、日本に潜入させたソ連のスパイから、「日本軍は大規模な軍隊の再編成を計画しており、その再編成には2年の期間が必要であろう」との情報があり、ソ連軍では、「日本軍との戦闘は、この時期が有利である」との判断をしていたとの記録があります。このソ連側の対応は、日本側の対応と大きく違っていました。
第2次の戦闘は、ソ連軍の準備が完了した1939年6月20日頃から始まりました。6月18日にソ連軍の爆撃機が、来襲して燃料集積所を爆撃しました。これらのソ連軍の攻撃に対して、戦闘不拡大の方針を採っていた日本軍の指導部も、方針を変え、「ソ連軍を撃破すべき」とする意見が優勢になりました。6月22日に、ソ連軍の航空部隊と日本軍の航空部隊との衝突があったが、兵力に乏しい日本側が大勝しました。日本軍は、ソ連軍の航空部隊が駐留している航空基地への国境を越えた爆撃を、6月27日に実施しました。この爆撃で、ソ連軍機を多数破壊しましたが、昭和天皇は、「これは関東軍の独断で実施した作戦である」として、責任者の処分を命じました。
6月30日には、日本軍の戦車隊がソ連軍の戦車砲の攻撃を受け、日本の将校たちはその威力に驚きました。さらに、7月2日に日本軍の歩兵が進撃を始めると、ソ連軍の猛反撃を受け、日本軍はソ連軍の砲撃の威力に驚かされました。ハルハ河を挟んだ蒙古・ソ連軍と日本軍の戦いは一進一退を続けました。しかし、戦車の喪失に驚いた陸軍首脳によって、戦車隊の解散が決定されるました。その後、日本軍は歩兵部隊のみによるソ連軍との戦闘を展開しました。ソ連軍戦車に対しては、手製の火炎瓶攻撃で対抗しました。ソ連軍は、損害を顧みずに猛攻撃を続けました。このため、日本軍側の武器・弾薬が底をつき、次第に劣勢に立たされてゆきました。
7月に入って、一旦はハルハ河の西側にまで進んでいた日本軍は、東側の陣地に撤退しました。そして、ハルハ河の東側にあるソ連軍の陣地を夜に攻撃する作戦に出ました。ソ連軍は、日本軍の夜襲に悩まされ、攻撃・侵攻・撤退を繰り返したそうです。戦闘が膠着(こうちゃく)状態になると、ソ連軍は、態勢を立て直し、大攻勢の準備に入りました。この間、ソ連軍では大量の軍事物資と兵力、武器を戦場へ向けて送り込みました。しかし、日本軍側では増援がほとんどありませんでした。その間も、ソ連軍は日本軍に対する攻撃を続けていました。このソ連軍の攻勢で、ソ連軍の損失は大きかったのですが、日本軍の兵士は、ソ連軍の中での大部隊の移動が常に行われていたため、大部隊の移動に注意を払わなくなっていました。
ソ連軍は、総攻撃のための主力部隊の移動を夜間に行いました。また、ソ連軍は、日本軍がソ連軍の無線や電話を傍受・盗聴していることを利用して、わざと偽の情報を流し、さらに、満州のハルピンで活動しているスパイを使って、ソ連軍の補給が滞っており、攻撃を延期せざるをえないと言う嘘の情報を流しました。日本側の軍首脳は、この偽情報に惑わされ、「近々のソ連軍の大規模な攻撃はない」と誤解していました。ただし、日本軍の前線部隊は、ソ連軍の活発な動きを見て、ソ連軍が日本軍への攻撃を準備していると理解し、大規模な戦闘が始まる気配を感じ、司令部へ報告していました。
7月20日、ソ連軍の爆撃と砲撃が始まり、その地上部隊が前進を始めました。ソ連軍は、戦線の中央を歩兵部隊で攻撃し、左右両翼(北側と南側)に装甲部隊を進めて、日本軍を全面方位する作戦でした。日本軍の一部前線部隊は、この総攻撃に準備していましたが、他の多くの部隊は不意打ちを食らったような状態になりました。日本軍の北・中央・南の3つの部隊は、ソ連軍の意図を読めずに、3方面から攻撃してくるソ連軍部隊のどれに焦点を合わせるべきか、戸惑いました。そのため日本軍は、予め定めておいたソ連軍の攻撃に対する反撃作戦の実施要領に基づいて、反撃を開始しました。しかし、陣地を構築中であった北側の戦場では、満州軍の一部の部隊で、日本人指揮官を殺害し、ソ連軍に投降する例も出ました。この戦闘で、日本軍側の最も北側に配置されていた満州軍は、攻撃開始と同時に敗走しました。
満州軍部隊が敗走した後、北に陣を敷いていた日本軍部隊は高地に建設した壕に立てこもり、そこを攻めた圧倒的な規模のソ連軍部隊と激しい戦闘を繰り広げました。この日本軍の予想外の抵抗に、ソ連軍指揮官は、予備の威力を全てこの高地での戦闘に投入しました。最終的に、この高地での戦闘に投入された兵士の数は、ソ連側の兵士が、日本側の10倍程になりました。それでも、日本軍は抗戦を続けましたが、戦闘開始から4日目に撤退を始めました。この戦闘で生き残った兵士の数は当初の800名に対して、269名と記録されています。この撤退は、司令部からの命令なく、現場の判断で実施されたため、現場の司令官には、その後、敗戦の責任があるとして、拳銃による自殺が命じられたようです。
中央の日本軍陣地でも、7月24日に日本軍は反撃を開始しました。午前9時に作戦が開始されましたが、日本軍が進撃を開始すると、たちまちソ連軍の戦車と狙撃兵(スナイパー)部隊による攻撃で、日本兵がつぎつぎと戦死する状況でした。それでも、一部の部隊はソ連軍陣地に突入しました。後続の部隊が攻撃を始めると、ソ連軍の戦闘機が飛来し、機銃掃射を開始したため、進軍は停止しました。戦闘機が去ると、次に戦車が攻撃を始め、日本軍は苦戦を強いられました。ソ連軍の陣地に突入した部隊は、戦車の攻撃でほぼ全滅しました。8月25日にも日本軍の反撃は行われましたが、失敗に終わりました。この中央の日本軍陣地周辺で行われた日本軍とソ連軍の戦いは、し烈を極めたようです。日本軍陣地内では、全員で一斉に敵陣への突撃を行う「玉砕(きょくさい)」も検討されましたが、司令官の決断で、最後の最後まで戦う戦法がとられました。
日本軍の南側陣地がある高地でも、ソ連軍との激しい戦闘が行われ、最初の戦闘では、ソ連軍を撤退させました。しかし、すぐに日本軍部隊の弾薬と食料が底をついたため、8月22日の夜、日本軍部隊は前線の拠点を放棄して撤退しました。この時点で、部隊はほぼ壊滅状態でした。ソ連軍は、日本軍の抵抗が激しかったため、日本軍陣地に近い砂丘に大砲を設置し、日本軍陣地を砲撃し、その後に歩兵で日本兵に攻撃を加えました。それでも日本軍の兵士は、陣地を死守していました。8月25日になると戦線のほとんどをソ連軍が占拠していました。ソ連軍は、日本軍の兵士に向かって、日本語で降伏勧告を行いました。日本軍では、25日の夜、全ての部隊に対して撤退命令が出されました。この南側の陣地でも、司令官の撤退命令が出ないまま、撤退を行ったため、後日、司令官は敗戦の責任を負わせられ、自殺を命じられたようです。
その後も、日本軍は小規模な戦闘で兵力を失ってゆきました。8月28日には、救援部隊が前線に送られました。しかし、その救援部隊が到着する前に、陣地を守っていた部隊は撤退していました。撤退した部隊の兵士は、その途中でソ連軍に捉えられていました。その後、ソ連軍は、日本軍が陣取っていた場所に攻め込み、日本兵が残っていた陣地を一つ一つ攻めました。日本軍は、夜襲をかけるなど最後まで抵抗しました。8月31日、ソ連軍は日本軍を追い払い、全ての戦場を制圧しました。戦場に取り残された形になった日本軍の救援部隊は、「撤退命令」を受けて、多数の負傷者を出しながら、8月31日に軍司令部に帰りました。
1939年8月23日、ソ連はナチス・ドイツと独ソ不可侵条約を締結しました。日独防共協定をドイツと締結していた日本政府は、この情報に驚きました。ドイツの外務大臣は、日本の大使に対して、ノモンハン事件の仲介を申し出ました。日本とソ連の外交当局間では、ソ連軍の大攻勢が始まる前から、停戦交渉の準備をしていました。日本側は占拠が不利であったにも拘らず、関東軍が強気であったため、交渉は進展しませんでした。しかし、9月になると関東軍の司令部における戦況の把握も進んで、6日にノモンハン方面での全ての作戦中止が決定されました。ソ連では、ナチス・ドイツとの密約に従って、ポーランド侵攻の計画が進んでいたため、ノモンハンでの戦闘に兵力を割く余裕はありませんでした。日本側は、「両軍が現在占拠している線で停戦する」と言う譲歩案を示し、ソ連側もその案を受け入れ、9月15日に停戦合意を決定しました。
NHKスペシャル、ノモンハン 責任なき戦い(2018年8月15日放送)、NHK制作